こくご日和

国語(文学、語学…)全般に関するについて綴ります。

古典文学の冒頭を読む。①『古事記』

こんばんは。大学の関係で更新するのが毎度夜になってしまいます。なんとかできないかなぁ…。

今回から何回かに分けて、「古典文学の冒頭を読む」と題し、有名な古典文学作品の冒頭およびその周辺を紹介・解説していきたいと思います。特に大学受験を控える高校生に関しては、国語の二次試験等で問われる場合も少なくありませんので、覚えておいて損はないと思います。

 

早速ですが、本題に入りましょう。今回は古事記です。

…さきほど「二次試験等で出る」という話をしたばかりで申し訳ありませんが、『古事記』関してはあまり試験等で問われることはありません。(この作品は漢文チックに漢字を羅列して書かれたもので、書き下し方も編集者によって大きく異なります。よって試験問題としては向いていないようです)予めご了承ください…。

古事記』は和銅五年(712年)、女帝・元明天皇の勅命により編纂されました。撰録者は時のすぐれた学者官僚の太安万侶(おおのやすまろ)です。彼は漢文に精通しており、『古事記』序文からも高い文章表現力が見て取れます。

では、冒頭の部分を見てみましょう。(『序文』ではなく、『上巻』の冒頭を指します)

「天地(あめつち)の初発(はじめ)の時、高天原(たかまのはら)に成りませる神の名(みな)は、天之御中主神。次に高御産巣日神。次に神産巣日神。此の三柱(みはしら)の神は、並(みな)独神に成り坐(ま)して、身を隠したまひき。」(『古事記角川ソフィア文庫

言葉の読み方も意味も相当難しいので、次に現代語訳を見てみましょう。

天と地が初めて分かれたとき、天上界の高天の原に現れた神は、天の中心を占める最高神アメノミナカヌシ、次に天上界の創造神タカミムスヒ、地上界の創造神カミムスヒである。此の三神はいずれも無性の単独神で、目に見える身体を持たなかった。(同上)

恐らく皆さんが持つ、『古事記』に出てくる神様のイメージは「伊耶那岐命(イザナキ)」や「伊耶那美命(イザナミ)」、あるいは「天照大御神(アマテラス)」や「建速須佐之男命スサノオ)」といったものだと思います。ですがこれらの神々はもう少し後になって出てくるもので、『古事記』自体のお話は、上述した、あまり聞き覚えの無い三柱の神から始まります。

この三神はいずれも無性(性別を持たない)であり、性愛を示す神は上に書いたイザナキやイザナミが挙げられます。(「イザ」は愛に誘うという意味で、「キ」「ミ」はそれぞれ「男」「女」を指します)

 

このように『古事記』の冒頭は、このように天と地が分かれ、天上界(高天原)に神々が誕生したという、創世記らしい書き出しです。この後の段ではイザナキとイザナミが国を産むシーンや、黄泉国(よみのくに)に行ってしまったイザナミをイザナキが追いかけるシーンなどが鮮明に描かれていきます。

特に私が好きなシーンとしては、イザナキが黄泉(死者の国)を見た穢れ・嗅いだ穢れを清めるために、目と鼻を洗う場面です。ここでは、左目を洗うとアマテラス、右目を洗うと月読命ツクヨミ)、鼻を洗うとスサノオがそこから生まれるという、なんだかとんでもない展開が繰り広げられますが、私はこのシーンがとてもファンタジックで好きです。

 

なんだか本来の趣旨と話がずれましたね。『古事記』は奈良時代の作品で、文法・単語も奈良時代のものが用いられているため、私達が高校で習う平安時代基準の文法・単語ではなかなか読みづらいものですが、一度読むと非常に冒険味溢れる素晴しい作品です。

ぜひ一度、手に取ってみてはいかがでしょうか?